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中川町の沿革
中川の薄荷栽培
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北見地方(北見、端野、遠軽、湧別、滝上、丸瀬布)が日本の薄荷栽培の中心地であったことは有名だが、中川地方
(中川、美深、智恵文、名寄、士別)がかつて北見地方とシェアを2分する薄荷栽培地であったことはあまり知られていな
い。
薄荷の本格的な耕作は、明治27年渡辺精司が永山兵村から薄荷の種根6貫目を買い受け北見の湧別村西1線で栽培
したのが始まりとされる。
一方、中川には北海道の薄荷生産拡大の最大の功労者である田中篠松が明治42年に中川帝室御料林に入植してい
る。
田中篠松は明治24年岐阜県荘川村町屋の生れで、中川村の板谷農場で薄荷の作付けから精油までの技術を習得し
た。
昭和3年に野付牛(北見市)の助役那須嘉市の斡旋で端野村に移住、蒸溜釜の研究を重ね、精油釜の改良機製作に
成功した人物である。
薄荷はシソ科の多年草でミントと呼ばれ、一般には薄荷脳 (メントール) を含む同属の植物の総称で、薄荷の茎葉を乾
燥・水蒸気蒸留して薄荷油が精製される。
大正7年(1918)3月8日付の北海タイムスには「本道に産する薄荷は取り卸し薄荷にして粗製品なるが大正4年の状況を
示せば、製造者は7,626人、取り卸し薄荷556,968斤、価格1,709,410円にして其取引は横浜神戸等の貿易商人は直接来
道購買をなすものなり。」とある。


北見薄荷工場 田中式蒸溜釜
薄荷は、花が開く直前に刈り取って、収穫した茎葉は陰干しにして、乾燥させてから水蒸気蒸留して、薄荷油を採る。
これを氷で冷却すると、無色透明で針状の結晶(薄荷脳)が得られ、取り卸し油の50%が薄荷脳として回収された。
薄荷が選ばれたのは、気候が栽培に適していることや水蒸気蒸溜法も容易で油脳分のみの出荷で高収入が得られる
ことにある。
大正11年(1922)頃には北見と中川で日本の薄荷栽培の80%を占めるまでになった。薄荷畑の約5反分の取り卸し油が
石油缶1つの容量(18リットル)で、昭和9〜11年には180円〜240円で売れた。(米1俵60kgは12円)薄荷の好景気を迎へ、
横浜神戸等の貿易商人が連日買い付けに訪れ、誉平駅(現、天塩中川)や佐久駅前は産地市場化し、旅館、料理飲食
店が繁昌し目ざましい発展ぶりだった。ひとたび大金を手にすると連日連夜、小料理屋に入り浸り札束の雨を降らせ
「飲む・打つ・買う」の放蕩三昧をつくし、再び貧困へと身をやつす者があとを絶たなかった。
取り卸し油のみの生産では、価格の変動が激しいことに危惧を抱いた農協は、大正9年(1920)名寄で「北海道薄荷製造
株式会社」を設立、同13年には共販精油化をホクレン(保証責任北海道信用購買販賣組合聯合會→ホクレン農業協同
組合連合会)に要請する。ホクレンは昭和8年(1933)北海道から4万円の補助を受け遠軽に建設予定していた工場を野
付牛(北見市南仲町)に移し総工費11万4千円で「北聯薄荷精製工場」を建設する。これによって、蒸留釜で採られた道
内の取り卸油は、北見の精製工場に集められた。
ホクレンは、昭和14年(1939)に薄荷脳、薄荷油合計525トンを輸出、世界市場の7割を占めるまでになる。
薄荷脳の6割はアメリカ、薄荷油の大半はヨーロッパ向けであった。
やがて日中戦争(太平洋戦争)の激化による国家統制の強化によって、大規模な薄荷の減反と、食料となる他の農作
物への転換を余儀なくされる。
戦後は、大幅減反政策下での技術存続は致命的となり、中川の薄荷産業は次第に歴史から消え去って行った。

中川の農作物の作付け状況(昭和10年)
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失われた集落機能
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中川町において農業集落としての機能を失った集落は、中山間地域の集落であり、 当該地域においては高齢化 過
疎化に伴って集落機能を失ったと同時に、高度成長期を中心に若年人口が都市に流出したことが要因である。昭和30
年(1955)には7,237人であった人口は、50年後の平成16年(2005)には2,106人と最大時の30%以下にまで減少してい
る。
全体の35%が65歳以上の高齢者で占められ、今後は、非農家、周辺集落、都市住民等とも連携した新たなコミュニティ形
成により、農地等の地域資源の保全や新たな価値の創造と再生を一緒に考えた新しいビジネスモデルの構築が必要と
されている。
神路集落
神路は、アイヌが付近の神居山(標高398m)をカムイ・イル・サム(神様が降りてくる路)と呼んでいたことから、大正11
年11月8日、天塩線の開業時に「神路」の駅名が付けられた。
神路駅前には国鉄保線区の官舎、北大演習林の林業労務者住宅が建ち集落ができる。
元々は天塩川の左岸の幌萌「ホロモイ」(大きい川の淀み、の意)と呼ばれた地区で明治40年に宇佐美氏、同41年後藤
氏が御料地に入植している。
幌萌は物満内と富和の中間にあり、天塩川の峡谷が続き舟運を利用する旅人の舟宿となることもあった。
戦後の開拓により昭和29年〜33年までに12戸が入植、ジャガイモ・イナキビ・ビートを主に栽培した。
神路駅前から幌萌には天塩川を船で渡る不便さから、根強い運動で昭和38年(1963年)神路大橋(つり橋)が架設さ
れ、5月20日盛大に渡橋式が行われたが、同年12月18日午後11時頃突風が原因で落橋する。神路大橋の落橋や前年
の台風での被害が動機となり順次離農。昭和40年6月には農家1戸と鉄道関係職員11人となり、小学校も廃校した。
昭和40年(1965)7月神路小学校が廃校となり、神路地区が無人となる。
神路駅は利用者が皆無となったため昭和61年3月14日で廃止された。

神路大橋(つり橋)
富和集落
富和はチャラシナイ(滝を成してサラサラ流れる小川)→知良志内(チラシナイ)と呼ばれた。
昭和15年(1940)12月の村議会で「富山県人の開いた平和な集落」であることから「富和」の名が付けられた。
富和は、神路と佐久の中間にあり、安平志内川(我々の沿って下る川の意)の合流点から上流の天塩川の左岸側に拓
けた地域である。
安平志内川の合流点付近には、アイヌコタンがあり、安平志内川に沿って下ってきたアイヌが、天塩川を舟で移動する
ときの重要な拠点として、舟運を利用する人の宿となることもあった。
安平志内川の合流点付近でオフイチャシ(チャシ跡)が発掘されている。チャシは16世紀から18世紀のアイヌ文化期の
施設と考えられており、壕や崖などで周囲と切り離した高い場所に9尺ほどの割木の柵を張り巡らし柵の内部に2、3軒
のチセが存在した。オフイチャシ跡は階段状に3つの面がみられ、主体部を囲むように幅約 4.5m、深さ約 1.5mの壕がU
字形に巡らされている。
チャシの用途は、聖域としての性格が強く、次いでアイヌ族のチャランケの場、和人との戦いが激しくなると軍事施設とし
ての役割が大きくなったとされる。チャシの築造に必要とされた労働力は、およそ100人がかりで築造には一ヶ月ほど要
したと推測されている。
明治42年(1909)には、知良志内に20戸が入植しており、清水清太郎の一家も2月2日中川村字チラシナイ7線43号に転
籍する。
安平志内川沿いのサクコタンを追われたアイヌは、チラシナイ川の上流に移住し、加藤イソモンコロの一家は昭和初期
まで暮らしていた。

オフイチャシ跡
共和集落
共和地区は佐久市街から15kmほど南に位置する安平志内川の河岸沿いに拓けた集落である。共和の地名は、昭和
15年(1940)の字名改正時に、「共に協力して平和な部落を築く」ということから長屋治平が命名した。
旧字名は「志文内」(しぶんない)で、アイヌ語の「シュプンナイ」(ウグイのいる川)から転化した。今日でも志文内川や安
平志内川にはウグイ、ヤマベ、イワナが棲み、多くの釣り人が訪れる。
志文内川では砂金が採れたので、入植前から砂金掘りが小屋を建て採取生活をしていた時代がある。
志文内に入植した多くは、岐阜県人である。明治42年(1909年)御料地の貸付が行われ、32戸が入植した。
志文内の集落から2kmほど上流のワッカウエンベツ川と安平志内川の合流する地点にアイヌコタンがあり、ダベシという
酋長が入植者にチセや丸木舟の作り方、山菜の食べ方などを教えたほか、安平志内川を往来し、農作物の出荷や味
噌や塩などの生活品の仕入れなどを仕事にしていた。

昭和4年(1929)に官設志文内駅逓が設けられ、道庁から馬3 頭が貸し与えられ、冬は馬橇で志文内峠を越えて佐久市
街まで行くことができた。
昭和3年12月から志文内診療所で拓殖医を務めていた守谷富太郎の元に、弟の斎藤茂吉、高橋四郎兵衛の2人で訪
れ、昭和7年(1932)8月14日、8月18日まで5日間滞在し47首の歌を遺している。
診療所兼住宅は、間口9間(約16m)、奥行5 間(約9m)の木造平屋建てトタン葺で、玄関の前には径30cm余りの丸太
の門柱が立っていた。
また遠くからでも目印となるような落葉松の防風林が診療所の敷地に丈高く一列に整然と並び、前庭には径20cmくらい
のアララギ(オンコの木)があった。

志文内診療所
志文内診療所跡に「茂吉小公園」が整備され、「さよなかと夜は過ぎつつ志文内の山のうへ照らす月のかげの静けさ」
の歌碑が建てられいる。診療所周りの防風林は当時のままにある。志文内峠を越え茂吉小公園へと至る峠道は、平成
14年(2002年)に散策路として復元され一般に公開されている。

志文内の大日本国防婦人会(中央のメガネの男性が守谷富太郎)
昭和27年から中川の市街地まで「沿岸バス」が運行されていたが、利用者が少なくなったことから昭和32年に廃止され
た。それでも昭和33年の共和地区の人口は490人を数えていた。

廃校になった共和小中学校
板谷集落
共和から更に10キロほど山奥に入ると、板谷地区がある。板谷は、小樽の板谷商船株式会社の板谷宮吉が、明治41
年札幌の真駒内に所有していた農場を道に譲った代償として、明治44年(1911)安平志内川上流の土地1,303.6haを払
い下げられたのに始まる。
大正2年に板谷農場に最初の小作人として若山茂作、川尻仁之助、渡辺仁太郎、池野友助、翌大正3年に熊谷清太
夫、山本彦市、古田万助、古田金五郎、古田仁太郎が入植、多くは岐阜県出身であった。
学校は大正5年、区長の曽根藤蔵ほか11名が発起人となり、板谷本社より15円の寄付を受け大正6年4月1日志文内尋
常小学校板谷特別教授場を開校した。
物資輸送には、蛇行する安平志内川を何度も丸木舟で渡る必要があったことから、大正10年に10箇所の「つり橋」を完
成させた。
その後、田中篠松、小川勘三郎が代表となり板谷本社、村役場、旭川土木事務所に陳情し、昭和2年に志文内まで馬
車で通ずる道路を完成させている。
昭和元年(1926年)、10月板谷に官設の駅逓所が設置され、学校の傍には神社も建立された。
板谷の集落は、中川の市街地からおよそ31q離れていたため、薄荷が主要な農作物であった。
薄荷が選ばれたのは、気候が栽培に適していることや水蒸気蒸溜法も容易で油脳分のみの出荷で高収入が得られる
ことにある。
周囲が国有林であることから農閑期は冬山造材で働き、昭和35年には59戸、358人が生活していた。
道路が整備され、電気が引かれたのは、昭和40年である。テレビや冷蔵庫が揃いやっと人並みな暮らしができるように
なったが、道路整備や農政の促進を行っても、地理的な不便さで離農者が相次ぎ、昭和49年5月末には15戸、50人にま
で減少した。
全盛期には、生徒数が90人を超えたときもあったが、この年の10月28日に板谷小中学校は廃校式を行う。板谷小学校
創立から58年目のことだった。大規模草地計画により、乳牛の育成も試みたが、地理的な不便さもあり酪農も断念し昭
和57年(1982)8月に無人集落となった。

板谷小中学校は廃校式(昭和49年) 月刊『文藝春秋』 昭和50年新年号
板谷宮吉
板谷宮吉は安政 4年(1857)、越後国刈羽郡宮川村 ( 現在の新潟県柏崎町 ) で漁網商、板谷善左衛門の四男として生まれた。
明治 3年( 1870 )、14 歳のときに松前町に渡り5年間の奉公の後、明治 8年( 1875 )、小樽に移り海産商、工藤作右衛門の店で奉公する。
明治 15年( 1882 )に26歳で米穀荒物雑貨店を開いて独立、製米所、醤油醸造業に拡大する。
明治 26年( 1893 )に原料の玄米を越後から運ぶために100tの小型汽船 「魁益丸」 を購入。
北浜で倉庫業を開業するまでは個人商店だったが、明治 32年( 1899 )に区会議員に当選し「板谷合名会社」を設立する。その後は、海運業に乗り
出す。日清戦争で持ち船が政府用船になり、その補償金で買った新鋭の英国船がまたも日露戦争で軍用船になり、旅順港閉塞作戦に参加、膨大
な政府補償金により英国から次々と大型船を購入する。
明治 44年( 1911 )には、所有船 6 隻 ( 17,503 総トン ) でハワイまでの定期航路を開設し、日本国内第5 位の規模に達した。
翌 45年( 1912 )、板谷商船 (株) を設立し、大正 11年( 1922 )には資本金 500 万円の大企業へと成長を遂げる。
板谷商船所有船のピークは昭和14年の8隻38,089総トンで、過半数が新造のディーゼル快速船であった。
日露戦後で日本領になったばかりの中国大連に、合資会社板谷商行を設立する。この会社は大正13年には大連を中心にした遼東半島周辺の海
域を担当する黒姫汽船合資(資本金5万円)に成長する。
大正3年に資本金50万円の樺太金融会社をつくり、半年後に樺太銀行と改称。樺太銀行頭取として樺太の開発に貢献するなど、多方面で業績を
上げた。
大正 13年( 1924 ) 5 月、享年 68 歳で死去。2代目宮吉を襲名した長男真吉は、商船社長・樺太銀行頭取から北門貯蓄銀行頭取、北海水力電気
取締役、横浜生命保険社長のほか、貴族院の多額納税議員を3期勤める。昭和4年 (1933)から昭和8年まで報酬を得ないで小樽市長を務めた。

小樽の旧板谷宮吉邸
大和集落
大和は稚右遠別「ワッカウエンベツ」(飲水の悪い川、の意)と呼ばれていた地区である。地元では単に和久加(ワッカ)
と呼ばれた。
大正3年江川惣之助が117町歩の払下げを受け、大正5年(1916)5月21日、奈良県十津川村出身の泉谷政一が、弟(杉
本氏)とともに江川農場に入植した。
大正7年(1918)、片岡久四郎、沢田熊一郎、田上清七、未森宗一の4名が江川農場を
買い受けたが、開墾が20町歩程度であったことから、この年の秋に売り払いを取り消さ
れる。
大正11年〜13年に8戸、昭和4年に30戸の集団移住があり、入植者が増え学校設置の
問題が浮上、昭和5年3月に上棟式を行い、同年5月21日「志文内尋常高等小学校所
属稚右遠別特別教授場」として開校した。昭和6年、ワッカウエンベツ官設駅逓所が設
置される。
昭和11年11月20日に「幸(サイワイ)尋常小学校」と校名を変更、昭和16年4月1日幸
国民学校を経て昭和22年幸小学校となった。この年、「共和中学校幸分校」も併置す
る。昭和15年(1940)12月の村議会で字名が改正され、「大和」となった。
大和の主な農作物は、交通の便も悪いために輸送費のかからない薄荷や除虫菊など
であった。
ワッカウエンベツ川の狭い流域に開けた集落であるため、狭い土地や斜面に栽培しており、住民の生活は貧しかった。
ワッカウエンベツ川の中流には中世白亜紀の地層が露出していて、多数の化石が産出する。
最大時には70数戸の戸数を数えたが、土地条件が悪く早くから離農者がみられた。道路は大雨により度々地滑りを起
こし交通不能を起こし、昭和37年の台風9号・10号により罹災、復旧困難となり、道の「災害激甚農家移転対策実施要
領」に基づいて15戸住民数91人が全戸離農した。
昭和38年3月31日、幸小学校で集落の解散式・廃校式が行われた。
琴平集落
御料局ではサッコタン農地と呼んでいたが、地元では、アユマナイと呼んでいた地区である。
アイヌ語の「イラ草のある川」を意味する。
琴平の地名は、天塩川の川運が頼りの生活であり、航海の守り神である金比羅神を祀っていたところから付けられた。
サッコタン農地には、明治41年入植が始まった。明治42年のサッコタン御料地入植者数は、33戸、貸付け面積は159.6
町歩である。
入植者の多くは富山県人であった。
入植当時は、いなきび・麦・馬鈴薯などの自給作物を耕作、その後、肥沃な土地に菜種・大豆・小豆・薄荷などの作物を
耕作した。
農産物の搬出は、吉田安太郎が長門船を造り物資輸送の便を開いた。
吉田安太郎は、大正3年(1914)から大正8年まで、中川演習林の山頭に任命されている。山頭は現場の総責任者として
作業現場の巡視を行い、伐採所の決定、造材技術の指導、集運材方法の指揮など事業全般に関わった。また山頭は
労働者の募集や賃金査定にも関与し、林内殖民に貢献した。
吉田は雑穀商を営み、大正11年に国鉄天塩線(現宗谷本線)が誉平まで開通したことで、翌12年に誉平市街(現中川市
街)に移転し、米穀製米所、米穀貯蔵倉庫業、建設請負業に事業を拡大、自家用トラックを導入し戦前・戦後を通して地
域産業の発展に貢献した。
大正12年からはアユマナイ川流域の北海道大学演習林内にも入植が行われた。
昭和30年(1955)12月2日、佐久駅〜 天塩中川駅間に琴平仮乗降場として開業。
昭和62年(1987)4月1日国鉄民営化により琴平駅に昇格、当時は駅周辺に民家があったが、平成2年(1990)9月1日利
用者皆無の為廃止。

琴平の滝
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